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原理主義者は(^_^A
ちょっと注目してた「エホバの証人連続放火事件」も犯人が逮捕された訳ですが
その真相は「夫の破門に憤慨した妻(信者)が放火していた」と言うもの…やっぱ、原理主義者は怖いなぁ(^_^A
「エホバの証人」と言うのはキリスト教原理団体で、良く「輸血の拒否」等で騒がれる団体です。
他にエホバの証人以外のあらゆる宗教(キリスト教の他の宗派も否定してます)、偶像崇拝、参政権、兵役、格闘技なんかも否定しており、K-1観戦や投票なんかには行ってない筈です。格闘技の拒否に関しては裁判まで起こしていて、当時オウムの行動が変調して来た事もあり「宗教家は偏屈だなぁ」とか思っていた時期で、その後オウムは地下鉄サリン事件を起こす訳ですが(--;
まぁ、宗教やってるからってこんな事をする人間は極一部ですが、キリスト教徒に限らず原理主義者は行動が極端になりがちなんですよね。

今回の放火事件に関しても、破門と言うのは彼らにとっては大事であって、破門された信者とは口きいてもいけない訳ですよ。家族の場合は多分良いと思いますが(駄目かもしれないけど、一緒の家に住んでりゃ…)、それまでに築きあげてきたコミュニティの全てが崩壊する訳で(そういう人は、仕事仲間とは当たり障りの無い会話しかせず、教会に誘う事は有っても、仲間付合いはしませんから(^_^A)、破門は大げさに言うなら人間社会から自分が居なくなるのに等しい訳です(本人にとっては全然大げさでなかったりもする)。
いや、ココ読んでる人は、実生活の友人の他にネットで知り合いがいるでしょうから、あまりピンと来ないかも知れませんが(^_^A
言ってみれば、校長先生公認で行われる学校全体規模の無視?
そういった背景が見えていると、放火事件まで発展した事も「なるほどなぁ」だと思います。

以前も書いた事ありますが、私は無神論者です。
「神は存在しない」と言うのを世界の原則としながら、キリスト教に限らず宗教を信じている人達の中には神は「居る」と思いますし、そういった信仰が心を豊かにしているとも思います。そういった点が、所謂無神論と異なる部分で、神は居ないけど信仰は否定しないという考え。
が、そういった宗教で齎されるものは良い事だけでもなく、今回の放火事件や原理主義の抱える様々な問題点は(特に放火は)宗教が生んだ悪い点…いや、エホバの証人の信者とかは「放火した人間が悪いに決まっている」「自分達は被害者」「宗教が悪いのではなく、それに背いたから悪い」と切り捨てるでしょうが、事件の何が問題だったのか?何が原因でこんなことになってしまったのかを知ろうとか考えようとしないのでは裁判の意味なんて無いんだよね(--;
過去の事件(社会が引き起こした問題)から反省や教訓を得て、少しずつ社会を良くして行こうと言うのが、事件に関係していない第三者にとっての裁判の意味であり、そういうの身近に感じられない人に、少しでも司法の意義を考えてくれよと言うのが裁判員制度の意義なんだけどね。
でも、原理主義者にとっては今回の事件があっても「自分達は正しくて被害者」は変わらない訳で…自分の(宗教に関する)正当性をそこまで信じられるのは心の強さと言えるかもしれませんが、他人にとっては嫌な強さだ(^_^A
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エホバの証人が、例えば波紋や排斥を起こす場合は、限られています。
それは、明らかに聖書に反する事柄を、行っておきながら、まったく悔い改めない場合です。
ですが、それは本人が悔い改めて、その行動を絶つならば、排斥には至りません。
何度注意し、話し合ってもやめない場合、排斥されるのは、本人の責任と言えるのではないでしょうか。
そして排斥された人と交流を持っていけない理由の一つとして、その交流を持っている人がつまずく可能性があるからです。例えば、ある人が煙草によって排斥されたとします。その人の交流者は、長い間一緒に過ごしていれば、煙草をすいたく思うかもしれません。実際にこういう風につまずいた人が居るのです。なので、交流は絶つ必要があると言えます。
例えば、貴方にお子さんが居たと仮定して下さい。そのお子さんが、何度注意しても悪さをやめない生徒と親友同士になっていたとします。その交流は、相応しく思えますか。自分の子供に何らかの影響があるのを恐れて、交流を留めさせませんか。

なんにしても、誰に対してでも放火というのはもちろん宜しくありません。
自分の家に放火されて納得する人は、少ないかと思います。されて良い理由がありませんから。
真治 | URL | 2007/06/17/Sun 01:01 [EDIT]
> Re:真治さん
どうもはじめまして、真治さん。

原理主義の悪い所はまさに「明らかに聖書に反する事柄」の解釈があまりにも極端であるという、その点なのです。
そもそも原理主義というのは、「堕落した宗教」を見るに見かねて「真の教えはこうなのだ!」と自らを厳しく律する人達の集まりですから、極端で厳しくあるのは当然です。
が、そもそも問題があるから長い時間をかけて今の形に宗教が落ち着いたのですから、時代を逆行させて原理主義を唱える事に何も問題がない筈は無いのです。

排斥された人と交流をもってはいけない理由にしても、それは教団に都合の良い理由ですし、そもそも宗教抜きにしても「集団」において「排斥」は当然発生するものであり、集団と異なる考えの者を集団を構成する者の身近に置かない様にするのは組織の維持を考える側として当然の事です。門戸を広く開いておき、一度入った人間の離脱は防ぐと言う手法も基本中の基本。
ですが、その当然発生するものや基本中の基本に対して、尤もらしく自分達を正当化する理由付けを語る事は偽善以外ではありません。勿論、自分達が正しいと語る者には理由付けが必要な訳ですが。

「放火されて良い理由」は勿論有りませんが、「される理由]から何も学ばないようでは駄目だという事です。
「自分達は正しい」という自己完結は、自分にとって気持ちがいいだけで、自分達以外との対立しか生まないんですよね。歴史だの、今の国際情勢見れば分かるように。
そうして、自分達が起こした対立を「自分達が正しいのだから相手が悪い」と思考停止して「悪い奴らから責められている」と受け取る様な考え方こそが平地に乱を置く悪であるのです。
宗教と言う「神様と言う絶対の正義」を中心にすえた宗教でさえ、長い年月をかけて、周囲との協調といった路線を歩んで来て、それは非常に評価すべき点であるのに、それを悪と考える原理主義。少なくとも私は好きになる事は出来ません。
黒川 | URL | 2007/06/17/Sun 09:58 [EDIT]

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